INTERVIEW Vol.07
喜多村 みか / Mika KITAMURA


interview 大山 光平 / Kohei OYAMA 

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2013年3月に個展『Einmal ist Keinmal』と同作の写真集をリリースした喜多村みか。同作はプライベートな関係を思わせる写真、生活圏内で撮られたであろうもの、国外の旅で出会った刹那的な光景など、実に様々なシチュエーションが混在している。撮影方法も一定の構図を持たないスナップショットだ。にも関わらず、それらは名指し難い一貫性で貫かれ、時間の束としての厚みを持っていて、幾度となくページを手繰ることになるだろう。作品の背景にある喜多村の意思と思想について、彼女自身の言葉を聞いてみたい。


『Einmal ist Keinmal』はスナップショットで多様なシチュエーションと被写体が撮られていて、ある意味ではつかみどころのない、わかりにくい作品と言えますね。

私の写真がわかりにくい理由のひとつに、突出した事柄があまり写っていないという点があると思います。作品となると多くの場合はひとつの理由や特徴を求めがちですが、スナップショットで撮られた写真はそんなにシンプルじゃないという想いがあります。この作品では何か必然性を説明したり、意味を限定するようなことをしませんでした。写真はとても曖昧で流動的で、無意味だと思っています。だから、大山さんの仰るような「名指し難い一貫性」なんていう言葉は私にとって嬉しい言い回しです。何かである必要はないというか。
「わからない」という感想をどう受け止めるかにもよりますが、今回は違和感なく耳に入ってきた感想でした。「わからない」と言う人は大抵、そのあとに続けて感想を話してくれました。つまり「わからない」と言う人の多くはそのままにしておかない。答えはなくても、それに近いものに向かって彼らなりに考えを巡らせてくれる。それぞれの解釈を聞いていると、最初にこの本を作ることができてよかったと思いましたし、自分のやり方に多少なりとも安心できました。この作品に対する考え方は、今後制作をする上でも原点や意思表明のようなものになったと思っています。


わかりにくさを肯定するという思いは、どういったきっかけや経緯から生まれたのでしょうか。

多かれ少なかれ、作品に意味を与えなければいけない場面は訪れるものですが、その度に釈然としない気持ちを引きずっていました。そして段々と「なぜわかりにくいか」を考える方がおもしろくなっていきました。

わかりにくさを肯定できれば正解を求めずに済む。正解も求めずに済むということは間違うということもない。自分の作品が本来持つ特徴の理解につながったし、写真のことやそれに必要なことだけ考えていられる。私にとって、言葉はその後からついてきて欲しいものでした。ある意味では、作品制作を続けるメンタルを保つために必要なことだったのかもしれません。

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10年という期間で大量の写真を撮られていると思うのですが、被写体に時代性を感じるものが少なく、時間軸が混在することでひとつのまとまりを感じます。撮影するときから時間への意識は強く持っていますか?

写真はそれ自体が象徴的なものであると思っています。つまり、時間や感情や場所や被写体など撮影時の条件に関係なく、どこか独立した別の次元で意味を持つものだと思います。どんな作品にしても、写っているものや手法はもちろんですが、それらを包括した視点で何かが語られる方が面白いと思っています。一方で、時間が蓄積されているほど写真の持つ力は強くなるように感じることもありますが、それは後にわかるものだと思っています。なので、時系列にも場所にもあえてこだわらず散り散りの構成にしましたし、撮影時から時間への意識を強く持っているわけではないように思います。 

 


見る側の興味が喜多村さん自身に向けられるのではなく、撮られたイメージそのものを自由な解釈で共有し、それぞれの写真も相互にリンクが貼られて繋がっていく、というような状態ですね。これから撮り溜めて、数年後に同じコンセプトで作品を作るという考えはありますか?

この作品は自分の写真にとって原点的な意味合いを持っているし、ライフワーク的な性格が強いので、発表の有無に関わらず撮影は続けていくと思います。発表するとなるとそこにどう意味を付けるかという目的がでてくると思います。環境が変われば多少なりとも自分も変化していくでしょうし、そうした中で写真に対する考え方の変化を見てみたいという欲求はあるので、その中で外に出す事が必要と感じたらまた発表するかもしれません。



今回の写真集を編集する際のセレクトの基準はどういったものですか?

強いて言うなら、流れを壊してそれぞれが独立していて、意味を持たせないようにすることでした。はじめは直感でとにかく選び、そこからページの大体の構成を考えたあと、どんどん写真をはめ込んでいきました。あとは見開きの色やバランスで決めていきました。ストーリーを生まないよう人物の写真の配置には気をつけました。なるべく、一枚の写真から全体の雰囲気でという流れで作品を見て欲しかった。大変だったのは思い入れがある写真の判断でした。思い入れの強いものはそれだけで物語を含み易く、ついついよく見えてしまい、あまり客観的に見れていなかったことに後で気付くことが多いからです。断腸の思いでいろいろ外しました。表紙を選ぶのも全体が集約したような一枚があるわけでもないので大変でした。

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出版と同時に同タイトルの個展(2013年3月20日~31日/THERME GALLERY)も行われていました。本と展示でまた違った印象を持ちました。同タイトルの本がある上での展示ということで意識したことを教えてください。

いつもなら場所に合う展示にすることだけに集中できるけど、今回は写真集を先にたくさん眺めていたので少し戸惑いました。写真集の中に求める雰囲気と、ギャラリーという空間に求める雰囲気が思っていたよりも違うものでした。どちらかに引っ張られてしまうと散らかった展示になってしまう気がして。別物だと思えるようになるまでに、頭では分かっていても少し時間がかかりました。



einmal ist keinmalという言葉はミランクンデラの小説「存在の耐えられない軽さ」からの引用だそうですね。文学や映画からの影響を写真という形で表すときにどういったことを考えますか?

「存在の耐えられない軽さ」はもちろん好きな本ですが、今回は特に小説から影響を受けたというわけではありません。タイトルにした言葉は文章ではなくことわざなので、前後のストーリーに関係なく使えるものでもありました。本を読んだりするとき、自分や自分の作品とつながるところに目がいきます。それは文学や映画に関わらずそうだと思います。日頃から探していて、あるときしっくりくるものが見つかった、という感じでした。常に探していると目や頭や耳に自然と飛び込んできて、そのことに気付く。実際に影響を受けたと言えるのは、身近な人達やそのときの環境だと思っています。



好きな映画や文学は?

限定するのは難しいですね。観るもの読むもの好きなんですが、あまり自分から探さずに人に勧められたり本屋であてもなく見つけてしまったとか、偶然出会ったもので選んでいることが多く、わりと雑食です。とにかく舞い込んでくるものを素直に観たり読んだり聴いたりするようにしてます。同じ本を繰り返し読むことがあります。



『penubra』は窓にフォーカスを合わせて背景をボカす作品群で、こちらは被写体も撮り方も決まっていますね。こういったシリーズで作られているものは他にありますか?

以前は思いついたアイデアを抵抗なくすぐに実行していたので、こういった写真も多かったように思います。撮影の時点で撮り方を決めていたものは少ないのですが、現像液を手で掬って印画紙に落として部分的に現像させてみたり、ネガを重ねて焼いたり、フォトグラムのようなこともやっていました。暗室作業はわりと好きだった記憶があります。いまよりもフィジカルに楽しんでいたかも。撮影よりも、編集の作業が作品をつくることなのかなぁという意識がそのころからあります。



今後の予定を教えてください。

この一年は『Einmal ist Keinmal』の巡回展をいろいろな場所でやりつつ、新作の制作を進めたいと思っています。
よろしくおねがいします。


Oct.2013


喜多村みか


1982 福岡県出身
2008 東京工芸大学大学院芸術学研究科メディアアート専攻写真領域修了
主な受賞にNikon Juna21(2004), キヤノン写真新世紀優秀賞(2006)、これまでに個展、グループ展多数。
2013 初の写真集『Einmal ist Keinmal』をTHERME BOOKSより出版
現在その出版を記念した展示を巡回中。