INTERVIEW Vol.14
大山 光平 / Kohei OYAMA

interviewed by 小林 健太 / Kenta COBAYASHI

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THE EXPOSED #7 展示風景 ©Kazuo Yoshida

2014年1月11日から2月28日までG/P+g3/ Galleryにて開催された「THE EXPOSED #7」。今回はそのカタログ発行に合わせ、出展作家の小林健太がゲストキュレーターの大山光平にインタビューを行った。自身もフォトグラファーとして活動し、paraperaというプラットフォームの運営、そして新しい出版レーベル「Newfave」の立ち上げを控える大山氏個人に迫ることで、今回の展示がどういったものだったのかを、改めて考えていきたい。


大山さんが写真において重要視している点はなんでしょうか?

僕が影響を受けた日本での写真の展覧会は、2004年にオペラシティ・アートギャラリーで行われたWolfgang Tillmansの個展「Freischwimmer」と、2005年に東京国立近代美術館で開催の「ドイツ写真の現代-かわりゆく「現実」と向かいあうために」です。これらは写真を私と世界の一対の関係であることから飛躍させてイメージの問題として扱う上で、重要な実践であったと考えています。

基本的に、写真は目の前の現実の光景を写すもので、撮影者である自分がいて、現実があって、その間にカメラがあるわけですが、その関係性は必ずしも一対一じゃない。現実は複数にあるし、自分自身も多くの価値観や情報のなかで揺らいでいるわけで、そういった複数と複数の混じり合いによって生まれるものがイメージだと考えています。

現実のある出来事に直面した際に、何か他のことを考えたり、思い、想像したりする。そういうことがイメージの根本にある。だから、僕の好みでいえば、意識的であれ無意識的であれ、作品がイメージの問題をはらんでいるものなんです。今回の「THE EXPOSED #7」は前述のふたつの展示の遺伝子をもった、2014年バージョンだといえると思っています。


今日の社会状況はインターネットの登場によって大きく変わったと思います。写真シーンはどう変化しましたか?

僕の実感としてはより身近になったと感じます。横田大輔くんがよい例だと思っていますが、zineを作り、インターネットを通して波及していって、多くの人が彼を発見し、美術館で展示をやるようなアーティストになった。そういう展開のスピードが速くなったのは間違いなくある。これまでなら到達するまでに20年、30年必要だったものが、5年、10年で行き着く可能性をもつようになったということを彼は体現している。ただ、それは写真に限った現象だとも思っています。写真集という文化、メディアが持つ役割がシーンにとって大きいということもあるし、写真作品がウェブサイトで閲覧できる画像と大きくかけ離れていないこともひとつの要因だろうと。マーケットの特性も含め、写真特有の現象が起きているのではないでしょうか。

作品イメージの普及という点ではスピードが速くなった一方で、重要な判断はやはり現物を見てからということになるので、そのためにはコマーシャルギャラリーに所属するか、プロジェクトベースでの活動が必要、というのが今だと思います。


「写真作品がウェブサイトで閲覧できる画像と大きくかけ離れていない」というのは写真シーンが抱えているおもしろい状況ですね。「画像」は最近のホットワードであるとも思います。「写真」と「画像」はなにが違うのでしょうか?

単純にいえば、その作成の過程に、カメラ、もしくは同等の機構をもった物が介在しているかどうかの問題だと思っています。カメラがあるということは、そこに何らかの距離感が生まれます。被写体があって、カメラがある、その距離感がはらむ空間は写真特有のものだと思っています。あるいはスキャナーの被写体が密着した空間などもそれにあたるかもしれません。


インターネット以降という軸をTHE EXPOSED #7に添えた時、それぞれの展示作品はなにを語るのでしょうか?

一人ずつ話していくと、佐藤健寿はもともと「X51.ORG」というウェブサイトを運営していました。多くのひとが知るものであったにも関わらず、ウェブサイトの更新を実質的に止めて、出版にシフトしていった。ふつうは今まで出版をやってきたのがウェブに移行していくところを彼は逆行する。それはとても興味深い点です。

彼が根本に何を持っているのかといえば、見たことのないものや、見えないものを見てみたいという好奇心で、彼は自分のインタビューのなかで、ウェブで見ているだけではわからないものがあるから実際に現地に足を運ばなければいけないということを言っています。それを実践しているわけですが、彼の追いかけているある種オカルトというものと、インターネットが持っている、見えないものを見たいという欲望の相性は非常に良いと思います。そういった、見える-見えない、見ることへの欲望ということが彼の作品においての接続点として挙げられると思います。

菊地良太は公共物の電灯やオブジェに登った姿を写真を撮るわけですが、例えば東京タワーのような、もっと大きい物に登った方がおもしろいんじゃないかという意見も聞きました。ただ、そこまでいくと「うわ、すごい」で終わっちゃうわけです。見慣れた物に彼の身体が介入しているっていう状況は、自分だったらどうだろうという想像が働くものだと思います。自分がこの立体物に登っていけるかとか、これぐらい上にいるとどういう景色が見えるんだろうっていうイメージができるギリギリの範囲で彼はやってるんだと思います。つまり、鑑賞者である我々は、彼の身体を通じて疑似体験をして、擬似的な視界をイメージしている。そういう意味で彼の身体というのは、もちろん身体としてあるんだけど、あくまでも容れ物であって、その容れ物の中に自分の身体感覚を投影して見ることができる。決してスーパーマンではない誰かを媒介にして、その視点や感覚を共有するということが彼の作品の特徴として挙げられます。


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THE EXPOSED #7 展示風景 ©Kazuo Yoshida

飯沼珠実は、今回の出展作品はいくつかの部屋のディテールを写し出しています。都市という概念があって、部屋という実態があって、部屋の一部という細部がある。今作のシリーズはこの3つの構造がレイヤーになっているようです。実態にはタイトルが示唆するように誰それの部屋のどこという物語があり、細部には色や質というディテールがある。物語とディテールによって都市のイメージが見えてくる。細部から全体を見るというスケールの拡大と縮小、全体の捉え方があって、それを展示というフラットな形式とブックという時間軸や展開をもった形を合わせて見せている。そういった編集的な視点を作品のなかから感じ取ることができます。

チバガクは、写真と画像の境界線上にあるというのは前提とした上で、エラーによって生み出されるノイズをフィルムにおける粒子と等しく扱う。それは意匠ではなく、カメラアイが写す像と、彼の持っている心理だったり、感情の揺らぎのなかで生み出されるイメージのギャップとして、その割れ目として表している。つまり彼は写真に対して疑いがあるわけです。写らないものがあるということを強く自覚している。カメラがどれほど高解像度になっても写らないものは依然としてあるのです。


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THE EXPOSED #7 展示風景 ©Kazuo Yoshida

滝沢広は岩や石という時間性を内包しているモチーフを使っていて、今回は彫像を扱っていますが、その像が誰であるかとか、なぜ生み出されたのかという文脈からずらしています。本来あるべき地点から空間的にずらしていくことでひとつの時間軸を作っている。そういった本来の時間以外にも時間は流れていて別の空間もあるという認識は、近年のアニメーションや映画におけるループものやパラレルワールドものと本質的に近いと思っていて、そういった認識がポピュラーになっている背景には、インターネット、特にSNSや、ゲームなどの時間軸の扱い方が起因してると考えています。

また、彼は写真を立体に起こすとか、切断したりして、二次元のイメージを三次元的に扱うことで、見るものをその空間に没入させていきます。没入というのもひとつ重要なキーワードなんじゃないかと思います。

小林健太は、デジタル化によって撮影するデバイスが増えたことでそこから生まれるイメージも多様になった、そういった感覚を背景に作品を作り出しますが、その多くを私的な空間のなかで実践しています。その見せ方として、これは本人が言ってたことでもありますが、写真の参照点が絵画だけであったことから、ネットアートのような画像というものが表れて、対象が2点になった。その3つの軸の間を行き来しながら作られるイメージをたのしみにしています。


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THE EXPOSED #7 展示風景 ©Kazuo Yoshida 

画像と写真の違いの話を踏まえた上で、個々作家についての話を伺っていると、写真家の身体がそこにあるということが 「写真らしさ」にとって重要なのかなと感じました。インターネットで拾った写真だけで作品を構成できるような状況の中で、今回の展示作家の作品は、写真家がそこにいてカメラでそれを撮る、というのが全体的に共通していると思うんです。

身体があるということが、なにか現実に肉薄してるというような意味だとは思っていません。容れ物としての身体というようなものが介在してることが、写真を成立させるための重要な要素であると思います。絵描きのような身体性ではなく、そこにあること、写す人がいるということ、その身体を通したイメージを見るということです。


冒頭の質問で「複数と複数の混じり合いによって生まれるものがイメージだと考えています」とお話されていましたが、 「複数が交じり合う」というのは編集的なキーワードだと思いました。

ある意味で、今回の6人のアーティストたちはそれぞれ編集的な視点で作品を作っている人だと感じています。編集というのはつまり解釈の提示で、世界が素朴じゃないから、自分の中でもう一度構成して解釈を提示しなければ、その複雑さには敵わないと思います。

自分の解釈に基づいて、形式に捕われずに表していくということが編集の重要性だと思います。だから、アウトプットの形としても、人によって写真と映像という形にもなれば、写真とブックにも、立体のような写真、ということにもなり得るということだと思います。


インターネット以降、あるいは画像以降の写真というテーマを軸に話をしてきて、「身体」と「編集」というキーワードが出てきたのが面白いと思いました。写真を撮るときに身体が確実にある一方で、画像を編集するときの身体性というのはどのようなものなのだろうというのが気になります。絵描きと写真家は身体の関わり方が違うという話が出ましたが、そこから探ってみたらどうでしょう。画家と写真家の身体性というのは、どう違うのでしょうか。

画家の身体というと、まず腕とか筋肉とか骨とか、そういったことが思い起こされるわけですが、そういった点では、写真家の身体というのは内臓のようなものなのかなと思います。腕は自分の意思で動かせるけど、胃や腸は動かせない。そこに写ったものを、意図しないものや望まないものも含めて、咀嚼して受け入れていく。そういう感覚を写真家は根本的に持っているのではないでしょうか。

デジタル画像の編集に関していえば、モニターに向かって写真を編集する際、そこには撮影時と違う時間があります。アプリケーションを用いてワンクリックで写真の雰囲気や、時にはそこに含まれる意味も変換することができ、また、それをワンクリックで元に戻すこともできる。そういったノンリニアな時間軸の中にいることが、すでにイメージ性を備えているといえます。

フィルムにおける暗室作業は神秘性がありましたが、画像を編集する身体は、より俯瞰的なポジションにあるといえるのではないでしょうか。


今後の展望を教えて下さい。

今後も様々な試みを通して継続的に文脈を作っていくことが重要だと思っています。展覧会のキュレーション、新しく始める出版レーベルなど、国内外という棲み分けもなくて、文脈自体が独自のものとして立ち現れてくるまで続けたいと思っています。

Mar. 2014


大山光平 / Kohei Oyama

東京都生まれ。現代写真を中心としたアーティストの動向を、独自の企画を通じて国内外へ発信するプラットフォーム paraperaを主宰。2014年に出版レーベル Newfaveの立ち上げを予定。展覧会のキュレーション、出版、流通、ワークショップなどを手掛ける。

Website : koheioyama.com